映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」感想

映画「さよならの朝に約束の花をかざろう」感想

 

評価 S(円盤を買うレベル)

 

【以下の文章は作品のネタばれを含みます】

 

1 良い意味で裏切られた

 

 期待のずっと斜め上を行く作品だった。二回も見てしまった。

 最初は映画館の予告で見て「面白そうじゃん」と思ったのがきっかけ。

 しかし一抹の不安もあった。予告映像から「なんかふわふわのファンタジー恋愛ものかなあ」などと思って、その予断を抱いて本編に臨んだ。

 冒頭描かれたのは、異世界の、しかも世間から隔絶された山村で来る日も来る日も布を織り続ける長命の一族の姿。

 「こりゃあ、ベタだなあ」とか思った。しかし数分後に物語が全く違う展開を見せる。

 愕然とした。「この物語は、観客をどこに連れていくのだろうか」というとまどい。

 そして、展開していく物語で作り手が伝えようとしていることを感じた時、思ったのは「めっちゃ裏切られた。良い意味で。」だった。

 展開に分かりづらい部分があったり、セリフ回しに舌足らずなところがあったりと、完璧な出来の作品ではないが、そういう欠点を補って余りある魅力を持った作品だと思う。

 以下で、この作品を見て感じたことを書きたい。なお、この文章を書くにあたって資料や評論はほとんど見ていない(パンフ程度)ので、内容に勘違いや見当違いがあればご容赦いただきたい。

 

2 ヒロインらしくないヒロイン

 

まず、ヒロインのマキアが地味である。深夜アニメのキャラの立ち具合、萌え具合に慣れた人には違和感があったのではないだろうか。しかし思うに、多分これが作り手の主張だろうと感じる。「ツンデレ」をはじめとする「属性」「類型化」は、見る者からして分かりやすい一方で、人間の存在のリアリティという点では遠ざかっていくばかりだ。この作品のマキアの設定は、外見も性格も含めて「どこにでもいそうな」という言葉が(陳腐ではあるが)ぴったりな普通さである。

作り手が伝えたいものを伝えるためには、「普通の」女の子が信じられないような境遇に追い込まれなければならなかったのだと思う。物語が進むに従って、ヒロインが「普通の女の子」であることが生きてくるように感じられた。

 

3 長い長い物語

 

 この物語は、物語内の時間経過で見ると、おそらく100年近くに及ぶ歳月を描いている。

冒頭近くで出生直後のエリアルが登場し、ラストでは老いて死を迎えるエリアルが描かれるので、100年かどうかは不明だが、大きく違ってはいないと思う。昔からのマンガ好きとしては、この展開で萩尾望都ポーの一族(特に「グレンスミスの日記」)」や手塚治虫火の鳥 望郷編」を想起させられた。ファンタジーやSFで人間を描くことの本質の一つは、おそらく「現実にはありえない仮定された状況に置かれた人は、何を感じるのか」という問いであって、そこから人間の本質をあぶり出して行くという機能をこの種類の物語は持っている。この物語ではその点が存分に描かれていると思う。

現実の人間からみるとほとんど不老かと思われるほどの長命を持つマキアが、赤ん坊と出会い、育て、共に暮らし、そして彼の老いて死にゆく姿を見送る。そこに生まれるのはどのような感情なのかを、観客はヒロインと一緒に「体験」する。それがこの作品の構造だが、ラストでのマキアの号泣シーンは、その答えを見事に描ききった場面だと思う。

 

4 「それは『血』ではない」という強烈な主張

 

この物語で、もう一人のマキアとも言うべき存在がレイリアだ。彼女はいろんな点でマキアと逆の境遇に立たされ、過酷な運命に翻弄されることになる。レイリアの存在が、物語の中でマキアの境遇を鮮明に浮かび上がらせていくのだが、私が印象に残ったのは、彼女らの子供への関わりのありようだった。

マキアが見ず知らずの赤ん坊を育て、その一生を通じて親子として関わり続けるのと逆に、レイリアは自分の腹を痛めた子を育てるどころか会うことすら許されない。契機も対照的だ。レイリアにとって、それがもともと望まぬ「本意でない子」だった(彼女自身が望まない「選択」を受け入れざるを得なかった)のに対し、マキアは、自分とまったく縁のない赤ん坊を自分の子として育てることを自分の意志で選択する。マキアとエリアルの出会いの場面で、赤ん坊に関わろうとするマキアに、居合わせた行商人バロウが「おもちゃじゃないんだぞ」とたしなめようとする下り。その言葉をさえぎってマキアが放つ「おもちゃじゃありません」というセリフは、彼女の人格の芯の強さとともに、彼女が自らそれを選んだことを印象付ける。

そして、子供とのかかわりについてもっとも強く印象に残るのが、ラスト近く、レイリアが王宮から去る場面だ。ここで彼女は、自分の実の子を「捨てる」。一緒に連れて行こうとするのかと思っていた私は、この展開に強い衝撃を受けた。実際、この展開に違和感を覚えた観客も少なくなかったのではないかと想像する。「実の子を捨ててしまうのか」と。

だが、ここで私が感じたのは「これも作り手の主張なのではないか」という思いだった。

自分は以前から親子における「血のつながり」とかを絶対視する考えに漠然とした疑問を持っていたのだが、そういう視点で見ると、この映画のテーマである親子のつながりについて強烈に主張されているのは「親子のつながりは、血のつながりではなく、親と子のそれぞれの意志によって成り立つもの」ということのように思える。

 レイリアについては、これが凡庸な作品だと運命が過酷すぎて「もう死ぬしかないよね」という展開になりがちなのだが、同時にいわゆる「幸せになってほしい」キャラでもあるわけで、最後に作り手は、彼女を王宮から解放し、実の子を捨てるという神展開で「救った」。映画を見終わって、レイリアが救われたことに強いカタルシスを感じた。

 

5 終わりに

 

 なんか書きたいことを雑然と書いてしまったが、そんなこんなで良作は「語りたくなる」のである。他にも、エリアル子役の櫻井優輝くんの演技がめっちゃ良かったこと(幼少期の母親に依存する感じがとても良く出ていた。)とか、なんだかんだで最初から最後まで物語にかかわるイゾルがカッコよすぎて、もっと彼的に良い展開はなかったのか、とか、エンディングでメインアニメーターに井上俊之さんの名前がクレジットされていて、いきなり作画クオリティに納得したこととか、書きたいことはまだあるけれど、とりあえずここまで。作り手の方々に大拍手。次回作に期待。円盤買いますハイ。